秋期講座の概要と証し
✤2025年11月3、4日に、「世界宣教としての国内・海外宣教」というテーマのもとで秋期講座を開催しました。海外宣教については佐藤一彦師に、国内宣教については井口拓志師に、講義を担当していただきました。神学生を含め24名が講義を受けました。
世界宣教としての海外宣教
佐藤 一彦(太田BBC牧師)
新約聖書の「宣教」という言葉の語源は「派遣、送ること」のギリシャ語「apostello /アポステロー」から来ており、「使徒」は英語で「Apostle/アポストロ(遣わされた者)」はアポステローの派生語である。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」この中の「遣わされた」(ヨハネ20:21)にアポステローが使われている。これは神が人類救済のために御子を地上に遣わした「派遣」が頂点となり、次にキリストに代わって派遣されたのが使徒たちであり、彼らの働きを通して福音が世界に拡大するきっかけとなった。そして、次に私たちがどこかに「遣わされる」ために神が召して下さっていることに気付くべきである。
「主の栄光を国々の間で語り告げよ。その奇しいみわざをあらゆる民の間で。」(詩編96:3)。
全世界に主の栄光が満ちるためには、私たちが神の代理人として人々の間に遣わされるために召されているという意識を持ちつつ、教会から地域社会へと更に世界へと外に広がっていく神の遠心的な世界宣教の働きであることを覚える必要がある。そして、この世界宣教の働きは地方教会が主体となって、信じる者の群れが、共に祈り合い、協力し合い、犠牲を払い合って、福音を世界の国々に拡大させることが教会に対する御計画なのである。それを実現するためには、教会が「宣教」に常に関心を持ち、教会自身が更に霊的成長することが不可欠(使徒9:31)である。そして、教会の霊的成長のバロメーターは「与える教会」であるかということにある。それは、教会の大きさ、人数の多さ、経済力、機動力とは関係ない。パウロの宣教を支えたマケドニアの諸教会は決して豊かな教会ではなかった(2コリント8:1−5)が、神の視点をもって世界の畑を見ながら、貧しさの中でも一歩踏み出した時に、神の溢れるばかりの恵を経験できた。
「あなたがたは、「まだ四ヶ月あって、それから刈り入れだ」と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」 (ヨハネ4:35)。
神は、諸教会に世界宣教の働きを絶えずチャレンジしておられる。現状に満足することなく、更なる遣わす宣教への重荷を持ち関わっていく必要がある。実際、主は様々な形を通して私たちを鼓舞させようとしている。例えば、現在海外から宣教師たちが今なお日本の魂のために遣わされている現状を知っておられるだろうか。2019年以降日本に来られた宣教師は12組と一人。この現状に、私たちは使徒20:35を重く受け止めるべきである。「受けるよりも与える方が幸いである。」私たちには自分の同胞を一人でも多くキリストのもとに導くために国内伝道や牧会という求心的な教会と、「すべての民族、全世界」に向かう遠心的な重荷を持つ二つのタイプの教会があるのではない。一つの教会が車の両輪、あるいは二つの翼のように、国内海外に重荷を持ち、祈り、活動していく教会として召されていることを自覚する時に主はその教会を豊かに用いられる。
最後に、現在海外の宣教地で働いておられる宣教師たちには祈りの援軍が不可欠である。パウロは「私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」(ローマ15:30)と祈りの要請を諸教会に送らなければならなかった状況は今も同じである。「ともに力を尽くして」とは本来「一緒に戦う」という意味である。宣教師は宣教地において仕える僕「サーバント・リーダー」として人々の間に生きている。「サーバント(仕える人)」と「リーダー(導く人)」という、一見相容れないように思える姿は、権力ではなく奉仕、注目されるのでなく謙虚な姿勢を示しながら人々を導くイエス・キリストがその良き模範者である(マタイ20:28)。
多くの困難と危険が伴う異国の地での働きに、私たちの代表として遣わされた宣教師のために「力を尽くして」支援しよう。
ありがとうございました。