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神学校だより

神学校だよりは・・・

神学校の最新情報を皆様にお知らせするために年4回発行します。印刷されたものは教会で手に取り、お読みください。またオンラインでもお読みになれます。お祈りをよろしくお願いします。

神学校だより

2026年6月号、 Vol. 99

校長の机から

献身 -神のあわれみのゆえに-

校長 加治佐かじさ 清也せいや

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)

神学校はこの春、1名の修了生を送り出し、1名の新入生を迎え新年度がスタートしました。主の召しに応えて、軽井沢の地で主の恵みのうちに日々学ぶ学生たちのために、続けてお祈りくださいますよう、お願いいたします。

私は校長2年目に入りました。1年間の主の守りと皆様のお祈りに心から感謝します。1年を終えて新年度にあたって思いますことは、私自身がなおいっそう日々献身するものでありたい、ということです。かつて献身した、その決断をした、ということは今も大切なことです。しかしさらに大切なことは、今、自分が献身していること、主のしもべとして主にゆだねて歩んでいることです。このことはいわゆる献身者にとどまらず、すべての信仰者にとっても大切なことでしょう。「兄弟たち・・・あなたがたのからだを・・・献げなさい」と、主は冒頭のみことばで、すべての兄弟姉妹に今も呼びかけておられます。

私たちが日々主に自分自身をささげる理由、それは「ですから」とあるように、パウロが11章までに書いてきたこと、すなわち「神のあわれみ」です。その神のあわれみ「によって」(=のゆえに、に基づいて)、すべての兄弟姉妹に自分自身をささげるようにとパウロは勧めるのです。「勧める」と訳されている言葉は、「よかったらどうですか?」というような軽いものではなく、「是非そうしていただきたい」という愛を込めた強い呼びかけです。「神があなたを救ってくださった、そのあわれみの大きさを知っているなら、私たちは自分自身を神にささげて生きようではないか」とパウロは愛をもって勧めているのです。
私たちは、自分がどれほど大きな神のあわれみを受けているのかを忘れてはなりません。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。」(ローマ3:10~12)とあるように、私たちは神の前に罪人であって、救いようがありませんでした。

そんな絶望的な状況の私たちを神様は犠牲を払って救ってくださいました。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(同3:23~24)行いや功績によらず、ただ恵みによって、私たちは罪を赦されたのです。

このことは、私たちが神と和解したことを意味します。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(同5:1)。

また私たちは死から解放され、永遠のいのちにあずかるものになりました。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(同6:23)。
また内住する聖霊によって、私たちは神様と親しく交わる者となりました。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。」(同8:15)。
さらに私たちは、神様によってすべての必要を満たされる者となりました。「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」(同8:32)。

この恵みは、私たちが何かしたからではなく、ただ神のあわれみに満ちた選びによるものでした。「選びによる神のご計画が、行いによるのではなく、召してくださる方によって進められる・・・これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」(同9:11~16抜粋)。

以上の11章までの流れを受けて、12章で「ですから」とパウロは呼びかけます。このような分不相応な大きなあわれみを受けたのですから、自分の「からだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物」としてささげるようにと。それは自分自身を、人生を、日々の生活を、主の喜びのために、聖別してささげることを意味します。それこそが私たちに「ふさわしい礼拝」なのです。「ふさわしい」とは、「理にかなった」という意味です。あり得ないあわれみを受けた私たちにとって、感謝と喜びをもって自発的に神様に自分自身をささげることは、何ら飛躍したことではなく、むしろ筋の通った、理にかなったことなのです。

罪深いこの身に注がれている神の大きなあわれみを覚える時に、私たちは日々献身の歩みへと導かれていきます。一人一人の献身の歩みを、主が豊かに祝福してくださいますように。

修了生の証

✤2026年3月6日(金)に神学校において、第68回修了式がもたれました。修了生を1名送り出しました。

ただ主の恵みによる

修了生 安藤のゆり(ワーカーズ・船橋BBC)

主なる神の恵みによって神学校を修了させていただきました。多くのお祈りと励ましを心より感謝いたします。私という小さな一人に与えられた、2年間の主の御手を振り返るだけで、感動せずにはいられません。神がともにおられ、生きて働き、私を取り扱ってくださいました。

「のゆり」という名前はマタイ6:28から、野のゆりが全く養ってくださる神の御手によって育つことを覚え名付けられました。神学校での学びと訓練を通して、日々自分の罪が示され、無に等しい者であることを教えられました。また、自分の力でできることは何もなく、すべては神が成させてくださることを何度も教えられ続けました。それにより、神の御手がなければ生きることも、何をすることもできない私と、神がともに歩んでくださるという恵みを新たに教えられました。

学びを通して、主なる神のみで完全であり、神と比べられるものは何もないにも関わらず、罪人を主の働きに用いられるという、あまりに不思議なご計画が日々心に留まりました。次々に与えられる試練を通して自身の罪が照らされ、「私で良いのでしょうか…」と祈るばかりでした。召しの確信をみことばから確認する度に、救いも献身も召しも、ただ主の恵みによることを教えられ続けました。

神がお造りになった美しい自然の中で、神学生の兄弟姉妹と寮生活をともにしながら学びと訓練をいただけたことも感謝しています。それぞれの違いを通して、一人ひとりに神さまのご計画があることを教えられました。比較してしまい、あの方のようにできないと考えてしまっていたとき、「キリストのからだの一部であることを考え、その上で自分が今するべきことを考える」ことを教えられました。あの方ができることが私にはできない、と考える必要はなく、また、私がやりたいことをするのでもなく、神さまが私に与えて下さったものをさせていただくということを教えられました。罪を示され続ける中で、神の愛や御救いを受けた恵みが語られ続け、神の愛も御救いの恵みも、みことばも、知り尽くせないということを知りました。他者と比較したり自分を責めやすかった私ですが、神を知れば知るほど、自分が神に愛されていることを教えていただけたことも大きな恵みです。

昨年末、今後の歩みのために祈り求める中で、一つのみことばが心に留まりました。(使徒27:26)私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。「私たちは必ず打ち上げられます。」と確信をもっていながら、どこかの島とパウロは言っています。またこのことばをパウロが言ったとき、パウロと同じ船に乗っていた人々はパウロのことばを信じず、信用しませんでした。そのような困難な中でパウロは「元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。」と告白しました。

神さまのご計画は私の思いや理解をこえています。以前、横浜から船橋に導かれたように、神さまの不思議で、最善なご計画があります。どこに・いつ・どのようになど、この先のことは私にもわからないのですが、今与えられている導きに応え、お仕えさせていただきたいと思っております。そして、必ず最善に導かれる神に信頼して歩んでいきたいと思っております。

新入生の証

✤2026年4月6日(月)に神学校において、第72回入学式がもたれました。新入生1名を迎えました

主の命令に従います

新入生 小池 新(4年課程1年・調布BBC)

2019年宣教キャンプに参加しました。当時の私は聖書を読むことやメッセージを聞くことが苦手で、キャンプや賛美、交わりなどが嫌いでした。主へ感謝したことが無かったと思います。

キャンプでイエス様の十字架の本当の意味を知っていますか?というメッセージがありました。私は子供の頃から十字架の話を何回も聞いていましたが、本当の意味を知らなかったのだと思います。私は自分の罪を示されました。イエス様は罪深い私のために、地上に来て苦しみを受けて十字架にかかってくださいました。私はこのことに心から感謝をすることができました。自分の罪を知れば知るほど感謝をすることができました。イエス様を知れば知るほど自分の罪を示されました。

私は感謝と平安に満たされ、救いの確信があり、主の愛を受けてとても幸せでした。しかし、このままでは私だけが幸せだと思いました。全ての人に主を知ってほしいと思いました。

キャンプの最後の集会のメッセージは宣教の大命令について語られ、使徒の働き1:8、マタイの福音書28:18-20の御言葉が与えられました。

私の罪のために苦しんで十字架にかかってくださり救いを与えてくださった主が、私に宣教をしなさいと言われました。私は主の命令を素直に受け入れました。どのような形でも良いので主の証人として用いてくださいと祈りました。

2021年、礼拝で働き人の必要について語られました。調布教会でも働き人を必要としていると語られました。私は働き人の必要のために祈るようになりました。働き人の必要のために祈っても、自分が遣わされることは考えませんでした。私は若く、経験や知識、力がなく、精神的に幼く、喋るのも得意ではなかったためです。

メッセージを通して、モーセの召命やエレミヤ書1:7-8の御言葉が与えられました。主が御言葉を通して私を励ましてくださいました。私は自分の召しについて祈りました。

2022年、メッセージで御言葉が与えられました。コリント人への手紙 第一1:26-29「自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。私はその礼拝の招きの時に前に出て献身の祈りをしました。

私は罪が多く、人としても足りない者ですが、その自分の弱さを神に仕えない言い訳としません。足りない者であるからこそ全てを献げて、主が導き用いてくださることを信じて、主に委ねていきます。

オープンキャンパスの証し

✤2026年4月21日から5月1日まで、オープンキャンパスを開催しました。11名が参加し、授業を聴講されました。

二つの恵み

西 勇人(長野BBC)

神学校でまとまった授業を受けるのは、神学校を卒業して以来、実に四十年ぶりのことでした。ちょうど教会の礼拝で創世記シリーズの説教を終えたばかりだったこともあり、「創世記研究」の授業に参加することにしました。しかし、せっかくの機会なので少し欲張って、前日の別の科目もあわせて受講することにし、計十四コマ(1コマ50分)の授業に、神学生の兄弟姉妹たちに交じって参加させていただきました。

最初の科目「旧約聖書神学」では、ダビデがサウル王と親友ヨナタンの戦死を悼んで歌った詩(哀歌:Ⅱサムエル1:17-19)を集中的に学び、二科目目の「旧約聖書釈義」では、ヘブル語本文に付記された注をどのように読むのか、などについて学びました。そして翌日の「創世記研究」では、創世記全体の構成や区分について学びました。

今回のオープン・キャンパスへの参加を通して、二つの恵みを証ししたいと思います。

一つ目は、「人を通して学ぶ」という恵みです。普段は書物を通して学ぶことがほとんどですが、人を介して伝えられるものがあり、新しい気づきも与えられました。

二つ目は、「脱日常」ができたことです。季節にも恵まれ、自然に囲まれたキャンパスで一泊しながら、ゆったりと過ごすことができました。また、他の授業を担当されている先生方や、学生の兄弟姉妹との交わりも与えられ、リフレッシュの機会となりました。温かく迎えてくださったお一人おひとりに、心から感謝いたします。

オープンキャンパスの証し

✤2026年4月21日から5月1日まで、オープンキャンパスを開催しました。11名が参加し、授業を聴講されました。

二つの恵み

山下 真実(清水BBC)

オープンキャンパスでの学びを分かち合えることを主に感謝します。私は三日間参加し、多くの御言葉と学びをいただきました。全体を通して教えられたことは、真理を第一にすること、聖書はどのように言っているのかと聖書に立ち返ることです。私は大学で歴史を学んでいますが、学校で教えられる歴史と聖書から学んできた歴史とのギャップに悩むことがありました。しかし、昨年のオープンキャンパスでの先生との交わりを通して、主は向き合い方を教えてくださいました。

また、今回の学びを通して、聖書に返る大切さを教えていただきました。使徒の働き 2章42節「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」から、初代教会のクリスチャンの姿を見ました。彼らは交わりよりも教理を守ることを第一とし、教理に断固として留まり続けました。私も彼らのように真理を求め、成長していきたいと思わされました。そして、大学でも聖書を土台とし、何が正しいのか見極められる者でありたいです。また、そのためにもっと聖書を知りたいという思いが与えられました。授業では、どのような背景で誰に向けて書かれたのか、どのような区切りで見ると文脈が分かるのか、といった新たな視点をいただきました。日々の生活、礼拝や教会での学びにおいても御言葉を求めていきたいです。主の偉大なご計画と導きを知る3日間となりました。

先輩からの一言

主から勇気を得て

三澤 隆男(船橋BBC・JBBC11期生)

私は大学二年の時にイエス様の救いをいただき、自分が神様に創られ、御子イエス様のいのちを代償にして救われた程に愛されていること、又神様のあわれみの中に生かされていることを知り、生きる意味がわかって本当に喜んだものでした。ところがロマ書8:28で、その福音も伝える者がいなければ無駄になるというように受け取った私は衝撃を受け、Ⅰコリント1:28には神は無に等しい者、愚かな者をも用いてくださるとあるのに勇気を得て、「私はまさしくその通りの者です。私を福音を伝える伝道者としてお用いください」と卒業後に神学校に入学させていただきました。

最初の伝道所としての家は長屋の奥の 1年後には壊すという二階屋で1,2階とも4.5畳という小さな小屋のようでした。が、「ここで伝道させてもらえる。この町の皆さんに福音を届けることができ、その役目を私は戴いている」という喜びでいっぱいでした。チラシを広範囲に配布し、ポスターや看板を作って遠くまで貼りだし、駅の近くの広場や公園を借りて天幕集会で人に集まってもらいました。看板もテントもリヤカーで運びました。又福音を聞いていただくために、相手に信頼してもらうよう相手との信頼関係を築く努力が必要と感じました。証言する人は聞く方(かた)に自分の言葉は真実だと受け取ってもらえて、その上、生き方が信仰の結果だと思ってもらえたら、信仰の話も受け止めてもらえます。伝道を通して人間関係の構築の大切さを思い知らされました。

神学校管理員会より

神学校校舎の現状と必要について

神学校管理委員長 秋山 和雄

いつも神学校のために、尊いお祈りと献げ物をしてくださり感謝いたします。現在、神 学校では7名の学生が学んでいますが、建物に関しては様々な必要を覚えています。それらを皆様にも知っていただき、祈っていただければと思い、報告させていただきます。 構造自体はしっかりとしているのですが、建てられてからだいぶん経ちますので、様々な必要が生じています。まず害獣問題におきましては、雨どいにたまった落ち葉で雨水がたまり、壁が腐食して穴があき、ハクビシンと思われる害獣が天井裏を走り回ったりしていました。これについては既に対応しましたが、今後も同じようなことが起こる可能性があります。浄化槽関係では、浄化槽自体の修理、交換が必要な時となっています。また下水管の修理、下水管の高圧洗浄も必要となっています。照明器具におきましても、約7年前に、大チャペル、小会議室、事務室、校長室はLED照明器具に交換しましたが、食堂はじめその他の部屋は蛍光灯のままです。必要な蛍光灯の予備は購入していますが、いずれLEDへの交換が必要な時期が来ると思われます。また冷暖房に関してですが、各部屋のストーブも25年が経ちました。また軽井沢の気温が上昇しているため、現在は扇風機で対応していますが、やがてはエアコンの対応も考えた方が良いのかもしれません。また、学校西側道路沿いの木の枝が伸びておりますので、切り落とす必要も出ています。木の落ち葉によって、雨どいの白いペンキが剥がれて錆び付いたり、落ち葉が積もって東側の下屋根の部分が黒ずんだりしています。いずれも先生方が対応して下さったりしていますが、神学校の校舎が守られますように、ぜひお祈りをお願いいたします。

編集後記

編集者 上田 平安

『神学校だより』は、今回の発行をもって 99号を数えます。「九十九」という漢数字は、白髪を九十九髪(つくもがみ)と呼ぶように、「つくも」と読みなすことがあります。「つくも」は『広辞苑』によれば、「次百(つぐもも)」の縮約形。つまり、「次はいよいよ百」という意味を含んだ言葉です。本誌も次号で記念すべき100号を迎えます。九十九髪(つくもがみ)のように年を重ねた「白い紙」には、次回、どんな言葉が綴られるのでしょうか。楽しみです。

行事予定

7月9日(木) 卒業カンファランス
テーマ:「恵みによる伝道者家庭の形成」
講師:谷井涙賀先生(ハレルヤBC)


7月9日(木) 卒論発表


7月10日(金) 卒業式
説教者:谷井涙賀先生(ハレルヤBC)


7月13〜14日 神学校教師会と管理委員会の合同研修会


8月25〜28日 作業週