校長の机から

献身 -神のあわれみのゆえに-

校長 加治佐かじさ 清也せいや

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)

神学校はこの春、1名の修了生を送り出し、1名の新入生を迎え新年度がスタートしました。主の召しに応えて、軽井沢の地で主の恵みのうちに日々学ぶ学生たちのために、続けてお祈りくださいますよう、お願いいたします。

私は校長2年目に入りました。1年間の主の守りと皆様のお祈りに心から感謝します。1年を終えて新年度にあたって思いますことは、私自身がなおいっそう日々献身するものでありたい、ということです。かつて献身した、その決断をした、ということは今も大切なことです。しかしさらに大切なことは、今、自分が献身していること、主のしもべとして主にゆだねて歩んでいることです。このことはいわゆる献身者にとどまらず、すべての信仰者にとっても大切なことでしょう。「兄弟たち・・・あなたがたのからだを・・・献げなさい」と、主は冒頭のみことばで、すべての兄弟姉妹に今も呼びかけておられます。

私たちが日々主に自分自身をささげる理由、それは「ですから」とあるように、パウロが11章までに書いてきたこと、すなわち「神のあわれみ」です。その神のあわれみ「によって」(=のゆえに、に基づいて)、すべての兄弟姉妹に自分自身をささげるようにとパウロは勧めるのです。「勧める」と訳されている言葉は、「よかったらどうですか?」というような軽いものではなく、「是非そうしていただきたい」という愛を込めた強い呼びかけです。「神があなたを救ってくださった、そのあわれみの大きさを知っているなら、私たちは自分自身を神にささげて生きようではないか」とパウロは愛をもって勧めているのです。
私たちは、自分がどれほど大きな神のあわれみを受けているのかを忘れてはなりません。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。」(ローマ3:10~12)とあるように、私たちは神の前に罪人であって、救いようがありませんでした。

そんな絶望的な状況の私たちを神様は犠牲を払って救ってくださいました。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(同3:23~24)行いや功績によらず、ただ恵みによって、私たちは罪を赦されたのです。

このことは、私たちが神と和解したことを意味します。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(同5:1)。

また私たちは死から解放され、永遠のいのちにあずかるものになりました。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(同6:23)。
また内住する聖霊によって、私たちは神様と親しく交わる者となりました。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。」(同8:15)。
さらに私たちは、神様によってすべての必要を満たされる者となりました。「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」(同8:32)。

この恵みは、私たちが何かしたからではなく、ただ神のあわれみに満ちた選びによるものでした。「選びによる神のご計画が、行いによるのではなく、召してくださる方によって進められる・・・これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」(同9:11~16抜粋)。

以上の11章までの流れを受けて、12章で「ですから」とパウロは呼びかけます。このような分不相応な大きなあわれみを受けたのですから、自分の「からだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物」としてささげるようにと。それは自分自身を、人生を、日々の生活を、主の喜びのために、聖別してささげることを意味します。それこそが私たちに「ふさわしい礼拝」なのです。「ふさわしい」とは、「理にかなった」という意味です。あり得ないあわれみを受けた私たちにとって、感謝と喜びをもって自発的に神様に自分自身をささげることは、何ら飛躍したことではなく、むしろ筋の通った、理にかなったことなのです。

罪深いこの身に注がれている神の大きなあわれみを覚える時に、私たちは日々献身の歩みへと導かれていきます。一人一人の献身の歩みを、主が豊かに祝福してくださいますように。