行事予定

行事予定 12月13日・冬期休暇開始 1月13日・授業再開 2月3日・9月入学生後期開始 3月3日・第2回入学考査 3月6日・第68修了式

編集後記

編集後記 編集者 上田 平安 秋期講座の主題は世界宣教。「宣」という漢字の成り立ちは、「うかんむり(宀)」に「亘」。「宀」は屋根を表し、「亘」の部分は「めぐりわたる」ことを意味します。一説によると、「宣」という漢字は、高位の者が自分の意志を述べ、それを行きわたらせる場、すなわち宮殿を表していたと言われます。天に御座を持つお方の御言葉が、世界にあまねく行きわたりますように。

在校生の紹介

在校生の紹介 ✤現在、日本バプテスト聖書神学校では、7名の神学生が学んでいます。祈りに覚えてください。 渡邊わたなべ 剛志つよし 4年 出身・船橋BBC 奉仕・船橋BBC 岡戸おかど 恵里也えりや 3年 出身・船橋BBC 奉仕・船橋BBC 三浦みうら 基宣もとのぶ 3年 出身・高槻BBC 奉仕・高槻BBC 中村なかむら みどり 2年 出身・熊谷BBC 奉仕・熊谷BBC 中山なかやま 福音ふくね 2年 出身・清水BBC 奉仕・清水BBC 安藤あんどう のゆり 2年(ワーカーズ) 出身・船橋BBC 奉仕・船橋BBC 奥村おくむら 夏葉なつは 1年(ワーカーズ) 出身・清水BBC 奉仕・清水BBC

私たちの神学校と学び

先輩からの一言 私たちの神学校と学び 丸山 しづ子(習志野BC) 「先輩からの一言」への寄稿依頼が、とびこんできました。一期生で女性伝道師は4人生存していますが、一番若い私に大変な荷が迷いこんできたということです。後輩への励ましの言葉は他の方に委ねて、神学校開校当時のことをお伝えしたいとペンを取りました。 1954年4月開校というのに、校舎も教室もありませんでした。「これから主イエス様にお仕えするために勉強ができるのだ。」と喜んで千葉へ来たのに、寮もなく、台所もない学校でした。宣教師たちは旧幕張聖書バプテスト教会の礼拝堂に至る半地下道に天幕集会用のテントを張り、道路側を台所に、もう一方側を男子寮に仕切りました。女性のためには物置場であった3階2カ所を人が住めるように整頓し、女子寮として使うことになりました。お風呂はもちろんありません。JR幕張駅の「開かずの踏切」を渡って、旧14号線沿いのお風呂屋まで、20分から30分かけて歩いて行きました。全てが、これから伝道者として仕えていくために必要な訓練でした。教室は幕張教会の礼拝堂と宣教師宅のベランダでした。私たちは聖書を抱えて教室に行きました。最初、聖書しか持っていませんでした。 「聖書は聖書で学べ。」と教えられました。その理由は、この学校は「日本バイブル・バプテスト教会」の神学校だからです。わかったようで、わからないような、それでいて納得して・・・。アッ、教科書は?というと、「聖書です。」 神学校の先生方は、日本語をよく話せない宣教師たちでした。まだ日本語で教えられるほど語学力がありませんでした。アメリカの神学校で学んできた教科書を、通訳者、翻訳者、英語のできる神学生が翻訳しあったものを大急ぎで和文タイプで打ち、謄写印刷機で印刷して勉強したのです。しばらくして福音派と言われていた教派からバプテスト派に立場を変えられた牧師たちが加わって、教えてくださいました。 その頃、私たちが唯一、手にした参考資料はヘンリー・ハーレイ著の『聖書ハンドブック』でした。授業と言っても、宣教師が開拓伝道を始めるというと、静岡であれ、群馬であれ、皆で宣教師の車に乗って行き(当時は高速道路なんてありませんから何時間も車に揺られ、舗装道路もないので、ホコリで真っ黒になり)、到着するや否や、集会案内のポスター、チラシなどを手作業で作り、ポスター張り、戸別訪問をしてチラシを配り、夜には集会ができるように準備をし、「それ集会!」でした。初来会者への個人伝道も、自分たちが救われた証と、暗誦した聖句を使って主イエス・キリストを信じる必要性を話しました。 月曜日は奉仕先から神学校へもどり、火曜からの勉強の準備、宿題の仕上げ―宣教師は暗誦聖句を出すのが得意で、それぞれの先生が暗誦聖句を宿題として出されるので、多い時は100ケ所以上を覚えて書き出す、といった状態でした。このような神学校の生活は、大変でしたが、開拓伝道や教会成長のために急務でした。3年で1期生が卒業すると、出身教会から招聘され伝道者になったり、全くゼロからの開拓伝道におもむきながら神学校で教える働きにたずさわったりしました。少しずつ神学校の備品、参考書などが整えられていきました。 神様は私のたましいに必要な、そして、他の人に宣べ伝えるために必要な聖書をお与えくださいました。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」(2テモテ3:16)。そして、神様と共に働く者として、神様のしもべとして仕えさせていただいております(2コリント6:1~10)。このような者を選び、召し、お使いくださる唯一の、創造主なる神様に感謝しております。

秋期講座に参加して

秋期講座参加者の証し 秋期講座に参加して 箭内 公正(滝山BBC) 11月4日、神学校秋期講座「世界宣教としての国内・海外宣教」に一日のみ参加して、佐藤一彦先生と井口拓志先生の講義をお聞きしました。それぞれから宣教について考える上で貴重な示唆を頂いたので、それらについて述べたいと思います。 最初の佐藤先生の講義は、ウガンダ宣教の体験談を交えたお話で、とても明快でわかり易く楽しい講義でした。その中で特に心に残ったのは、「外国からの宣教師による宣教を経験している日本人は、宣教される側の気持ちがよく分かるというアドバンテージを持っている」という切り口からのお話でした。宣教する上で、自分が持っている価値観を押し付けるのではなく、相手の風俗、習慣、文化を受け入れていく大切さを改めて思わされました。次の機会には、その国の文化を主体として、そこに福音を受容させていくのではなく、その文化の中で聖書の価値観が主体であるような信徒を育成し、教会を建てあげていくという面についても体験談を交えてお聞きしたいと思いました。 続いて井口先生の講義では、パウロのエペソの長老たちへの決別説教からのお話が心に残りました。「私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです」(使徒20:27)ということばの中で、「神のご計画のすべて」が意味するところは、旧約聖書全体に示されている神のご計画、またその中に隠されている奥義であり、その中心は神の国とその完成であるという解説には共感を覚えました。また、それを前提として宣教を終末論的な視点から考えるという展開はとても新鮮でした。そう考えると、宣教とは神がその計画に従って進めておられる神の国の完成の働きに与らせていただくことであり、イエス様がこのように祈りなさいと教えてくださった「御国をきたらせたまえ」という主の祈りとも符合します。その視点に立つとき、教会の一人一人が神のご計画全体を学ぶ大切さを思わされました。

秋期講座を受講して

秋期講座参加者の証し 秋期講座を受講して 渡邉 博子(名古屋BBC) 今回の秋期講座で学ぶ機会が与えられたことを神様に感謝しております。 今回の講座でまず、聖書に見出す本来の宣教の語源と定義について学びました。 キリスト教会で用いられる宣教という言葉の意味は、「イエス・キリストの福音をまだ信じていない世界中の人々に、神から委託された権威をもって伝え広める活動」である。 「宣教」という言葉は元来「派遣されること/遣わされること」という意味であり神が人類のために、御子キリストを地上に遣わした「派遣」が頂点となる言葉である。 また、「世界宣教は教会のなすべき多くの活動の一つではなく教会の本質的使命である」と学びました。 私の心に響いた箇所でした。私はこれまでどのような思いで教会を捉えていたのだろうかと考えさせられました。講座内容も遣わされる宣教師としての心構えや「すべてを現地から学ぶ」ことなどが大切であること、すべては、イエス・キリストが良き模範者であると学びました。 聖書の中でパウロが「兄弟たち、私たちのイエス・キリストによって、また御霊の愛によって切にお願いします。私たちたちのために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」(ローマ15:30)と諸教会に真剣な願いをしている。 私はこの箇所は今まで深くは心に留めていませんでした。講座を通して、パウロの伝道旅行がいかに厳しく苦しいこと、その時の教会、兄弟姉妹の祈りが彼を支えたことを学びました。 また、「世界宣教の働きに私たちが『共に戦う祈りの援軍』として参加できることはなんと素晴らしい特権だろう。」とも語られました。「離れていたとしても、共に霊的な祈りをもって戦う、同じ信仰を持った力強い援軍がいてこそ、困難が生じる異国地にあっても宣教師は福音宣教を続けられる。その仲間が私たちJBBFフェローシップの諸教会なのである。」と力強く語られました。『共に戦う祈りの援軍』その働きに、私も参加させて頂こうと思いました。 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受けます。」(使徒1:8)のお言葉から、一歩踏み出すことによって聖霊が働いて下さる。信仰によって一歩を踏み出す大切さを教えていただき感謝いたしました。 最後に、講座のために準備して下さった先生方および、この学びのためにご奉仕くださった先生方はじめとして神学生の皆様方に感謝いたします。

世界宣教としての国内宣教

秋期講座の概要と証し 世界宣教としての海外宣教 井口 拓志(立川BBC牧師) 宣教の定義 「宣教とは、あらゆる国の人々のところへ行き、福音を宣べ伝えること或いは人々をイエスの弟子とすること。」 これはイエスの権威により派遣されることによって可能となる。また、宣教には伝道的要素と教育的要素がある(マタイ28:18−20、マルコ16:15、ヨハネ20:21)。 宣教の目的 宣教の最終目的は、神がご自身の国を造ることにある。それはイエスの宣教開始の宣言(マタイ4:17)や主の祈り(マタイ6:9−10)、最終的な預言である「新しい天と新しい地」(黙示録21:1)から明らかである。 神の計画全体から見る宣教 神がご自身の国を造ることは、神の計画全体から理解する必要がある。パウロは「神のご計画のすべて」と言っている。その計画のゴールは、御国を神の民が相続するときである(使徒20:27、32と黙示録21:1−2)。神の計画は、人が罪を犯して、エデンを追放されたときから始まっている。国を成り立たせるためには、王と(1テモテ1:17)国土と国民が揃わなければならない。特に、罪を犯した人はサタンの支配下(この世)に入ってしまったので、神は彼らを救済して、サタンの支配から奪還しなければならない。神に対する故意の反抗にもかかわらず、神は一方的な愛をもって人をお救いになる。ただ、神にとって人の救いはゴールではなく、救った人を神の国に入れさせ、御国そのものを相続させることにある(使徒20:32)。そのような神の計画の手段が宣教である。神の計画全体は、「聖書全体」(ルカ24:27)であり、神のご意志全体である。聖書全体から神のご意志に基づいた宣教を行うなら、神の計画に従って必ず前進する。 定義の再確認 宣教は福音を宣べ伝えること。その「宣べ伝える」とはどういうことか?聖書は、(1)「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」(マタイ24:14)という。別の箇所では、(2)「異邦人の満ちる時…」(ローマ11:25)という。終わりの時に神が救われるべき異邦人の数を揃えるという。*私たちが行う宣教は、神の救うべき異邦人が満ちるために、あらゆる国の人々に福音を宣べ伝える。救われるかどうかは、数を揃える神の責任である。そうなると、次のパウロのことばが理解できる。(3)「・・・見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられている…そのことを喜んでいる」(ピリピ1:17−18)パウロを苦しめるための不純な動機の宣教を、パウロが受け入れることができるのは、神の計画全体を承知しているからである(使徒20:27)宣教の目的は、教会を豊かに成長させるためではない。キリストを宣べ伝えるためである。初代教会の使徒たちがユダヤ指導者たちに捕えられたとき、敵方が彼らを責め立てたことばに、宣教理解のヒントがある。それが、(4)「・・・何ということだ。おまえたちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった」口語訳は「氾濫させてしまった」である。元の意味は「満たす、溢れる」宣教は広めることであり、福音を溢れさせることである。そのための教会の成長である。宣教は霊的戦いである。御国を造る神に激しく背く力が常に働いている。悪魔である。しかし、神は霊的戦いに終止符を打つ。地上における神の国の期間(千年王国)を終えた後、イエスにより死と悪魔が滅ぼされる(黙示録20:10、14)。救われた者は、この戦いとしての宣教に参与しているのである。しかし、私たちは弱い。何人かでも救いたいという熱意だけでは挫折する。そうならないためにも、宣教の目的と動機を確かにし、持続可能な戦い方をする。

世界宣教としての海外宣教

秋期講座の概要と証し ✤2025年11月3、4日に、「世界宣教としての国内・海外宣教」というテーマのもとで秋期講座を開催しました。海外宣教については佐藤一彦師に、国内宣教については井口拓志師に、講義を担当していただきました。神学生を含め24名が講義を受けました。 世界宣教としての海外宣教 佐藤 一彦(太田BBC牧師) 新約聖書の「宣教」という言葉の語源は「派遣、送ること」のギリシャ語「apostello /アポステロー」から来ており、「使徒」は英語で「Apostle/アポストロ(遣わされた者)」はアポステローの派生語である。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」この中の「遣わされた」(ヨハネ20:21)にアポステローが使われている。これは神が人類救済のために御子を地上に遣わした「派遣」が頂点となり、次にキリストに代わって派遣されたのが使徒たちであり、彼らの働きを通して福音が世界に拡大するきっかけとなった。そして、次に私たちがどこかに「遣わされる」ために神が召して下さっていることに気付くべきである。 「主の栄光を国々の間で語り告げよ。その奇しいみわざをあらゆる民の間で。」(詩編96:3)。 全世界に主の栄光が満ちるためには、私たちが神の代理人として人々の間に遣わされるために召されているという意識を持ちつつ、教会から地域社会へと更に世界へと外に広がっていく神の遠心的な世界宣教の働きであることを覚える必要がある。そして、この世界宣教の働きは地方教会が主体となって、信じる者の群れが、共に祈り合い、協力し合い、犠牲を払い合って、福音を世界の国々に拡大させることが教会に対する御計画なのである。それを実現するためには、教会が「宣教」に常に関心を持ち、教会自身が更に霊的成長することが不可欠(使徒9:31)である。そして、教会の霊的成長のバロメーターは「与える教会」であるかということにある。それは、教会の大きさ、人数の多さ、経済力、機動力とは関係ない。パウロの宣教を支えたマケドニアの諸教会は決して豊かな教会ではなかった(2コリント8:1−5)が、神の視点をもって世界の畑を見ながら、貧しさの中でも一歩踏み出した時に、神の溢れるばかりの恵を経験できた。 「あなたがたは、「まだ四ヶ月あって、それから刈り入れだ」と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」 (ヨハネ4:35)。 神は、諸教会に世界宣教の働きを絶えずチャレンジしておられる。現状に満足することなく、更なる遣わす宣教への重荷を持ち関わっていく必要がある。実際、主は様々な形を通して私たちを鼓舞させようとしている。例えば、現在海外から宣教師たちが今なお日本の魂のために遣わされている現状を知っておられるだろうか。2019年以降日本に来られた宣教師は12組と一人。この現状に、私たちは使徒20:35を重く受け止めるべきである。「受けるよりも与える方が幸いである。」私たちには自分の同胞を一人でも多くキリストのもとに導くために国内伝道や牧会という求心的な教会と、「すべての民族、全世界」に向かう遠心的な重荷を持つ二つのタイプの教会があるのではない。一つの教会が車の両輪、あるいは二つの翼のように、国内海外に重荷を持ち、祈り、活動していく教会として召されていることを自覚する時に主はその教会を豊かに用いられる。 最後に、現在海外の宣教地で働いておられる宣教師たちには祈りの援軍が不可欠である。パウロは「私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」(ローマ15:30)と祈りの要請を諸教会に送らなければならなかった状況は今も同じである。「ともに力を尽くして」とは本来「一緒に戦う」という意味である。宣教師は宣教地において仕える僕「サーバント・リーダー」として人々の間に生きている。「サーバント(仕える人)」と「リーダー(導く人)」という、一見相容れないように思える姿は、権力ではなく奉仕、注目されるのでなく謙虚な姿勢を示しながら人々を導くイエス・キリストがその良き模範者である(マタイ20:28)。 多くの困難と危険が伴う異国の地での働きに、私たちの代表として遣わされた宣教師のために「力を尽くして」支援しよう。 ありがとうございました。

主に祈り、共に過ごす

伝道実習の報告と証し 主に祈り、共に過ごす 奥村 夏葉(ワーカーズ・1年生) 今回の伝道実習の後半には、安藤先生ご夫妻をはじめ、船橋教会の皆様、柏教会の皆様、流山教会の青島先生ご夫妻、佐倉教会の齋藤先生ご夫妻と姉妹方との幸いなお交わりと、学びの時が与えられました。恵みを心から主に感謝いたします。 実習の後半では、諸教会を訪問させていただく機会が与えられ、先生方、兄姉との学びや交わりの機会を通して、主の働きをそれぞれの地でどのように担われているのかを直接お聞きし、地域を見ることが許されました。 地域との関わりにおいて、地域の特徴を捉えることや地域に根差すこと、顔と名前が一致する関係作りを大切にしているということや、自治会の清掃作業に参加されている等のお話も伺いました。あらゆる人々へ福音を伝えるためには、あらゆる人々の文化や環境を知り、自分自身もそこに住み、同じものを共有していくことが重要であると学びました。 またその中で、地域や教会に集われているお一人お一人の必要を知り、祈りと愛と具体的な行いを持って、主が始められた働きが益々前進して行くように仕えていくことが大切であるということも教えていただきました。 「すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。」 (1コリント9:22) さらに、伝道実習全体を通して「まず主に祈る」ことを教えていただきました。実習中も、状況に心を揺さぶられやすい自分の弱さを痛感しました。 その中でも、船橋教会の祈祷会に参加させていただいた際、兄姉が神学生の名前を挙げて、主に期待して祈ってくださっている姿や、諸教会の先生方のレクチャーにおいても、まず主に信頼して祈るということを教えていただき、果たして自分はどれほど主に信頼して祈りをお捧げし、望みと期待を持って歩めているだろうかと、問われました。 また、神様は実習中のデボーションにおいても、祈りは大きな業であるということ、祈りによって「私」ではなく「主が」成してくださるという恵みに気づかせてくださいました。 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」(ヨハネ14:1、14) 実習での様々な学びと恵みを主に感謝いたします。主のお働きのために、日々祈り、日々この身をお捧げしていく者でありたいです。

十字架を見上げて、共に

伝道実習の報告と証し ✤2025年10月13から17日まで伝道実習が行われました。実習の前半は、第51回野の花フェローシップキャンプに参加し、後半は、船橋聖書バプテスト教会で奉仕をさせていただきました。また、京葉地区の諸教会にうかがうこともできました。 十字架を見上げて、共に 渡邊 剛志 (4年課程・4年) 今回は野の花キャンプと船橋BBCにおいて実習の機会が与えられ、主からの多くの学び、取り扱いをいただきました。障がいをもたれた方と共にみことばを伺い、分かち合う時間は大変幸いなときでした。教会でお会いするだけでは見えない、寝食を共にするからこそ分かること、見えてくるものがありました。『魂に仕えるとは』、『共に教会形成するとは』など、伝道者として覚えるべき多くのことがこのキャンプに凝縮されていたように思います。様々なことを教えられましたが、ここでは2つの恵みを証させていただきます。 1・想像力を働かせて目の前の魂に仕える 3日間、脳性麻痺の方と共に過ごす機会が与えられました。その交わりを通して『目の前の魂に想像力を働かせて仕える』ということを主から教えていただきました。脳性麻痺の方々はあらゆる面において介助が必要であり、相手の方が今何に困っているのか、を常に覚えながら関わる必要があります。言葉にならない心の葛藤や必要をこちらが想像力を働かせて捉える。これは障がいの有無に関わらず、あらゆる方との関わりにおいても重要なことであると思います。主の眼差しで他者を見つめ、想像力を働かせて目の前の魂にお仕えする働き人とさせていただきたいです。 2・「共に」教会を建て上げる キャンプ中に開かれた1コリント12:22の御言葉に心刺されました。「弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。」これまでの歩みが走馬灯のようによみがえり、心探られ、悔い改めました。私は目の前の魂にどのような想いで関わり、仕えてきたか。弱く見える部分を尊重し、大切にし、教会を建て上げようとしてきたか、と。集会でのメッセージや交わりを通して、改めて「教会」はこの世の組織と全く異なる、素晴らしい神の共同体であることを覚えました。年齢、立場、状況が異なる方々と全く一つとなって教会を建て上げていくことは人間的なわざ、力では到底できません。キャンプテーマにあったように、ひたすらに十字架の主を見上げ、そこに示される主の愛と赦し、慰め、回復を共に分かち合って進んでいく。主のみを見上げ、共に生き、共に教会を建て上げる者とさせていただきたい、と思わされました。