福音宣教と神学校

校長の机から 福音宣教と神学校 校長 加治佐かじさ 清也せいや 「彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。」(使徒16章10節) 福音宣教と神学校は、切り離すことのできない関係にあります。その宣教について、秋期講座において佐藤先生・井口先生から、多くの大切なことが語られました。講座を通してあらためて教えられたことの一つは、宣教とは主の働きだということです。主が人を遣わし、主が道を開き、御国の完成という主の大きな目的に向かって宣教の働きがなされます。使徒の働きは、そのような主の宣教のわざに満ちています。その中から、使徒16章を読んでいきましょう。 使徒16章はパウロの第二次伝道旅行について記しています。パウロはシラスとともにアンティオキア教会を出発し、「キリキアの狭門」と呼ばれた、狭く険しく危険な山岳路を超えて小アジアに入ります。その動機は愛でした。第一次伝道旅行で生まれた諸教会を励ますためでした(15:36)。多くの迫害があり、パウロも死にかけたことがあった地ですが、それにも関わらず、再び小アジアに向かったのでした。 キリキアを超えたパウロは、リステラで、若く忠実なテモテを一行に加えます。諸教会もパウロの再訪を受けて励まされ、人数も増えて行きました。 パウロはさらに小アジアで働くつもりでしたが、そこに主の御手が介入します。聖霊によって行く手を阻まれたのです。そこで北上し別の場所に進もうとしましたが、それも聖霊によって許されませんでした。そのため西に進路変更しエーゲ海に面したトロアスまで来たところ、「私たちを助けてください」と懇願するマケドニア人の幻を見たのです。これをもって、冒頭のみことばにあるように、パウロはマケドニアに行くことが神のみこころだと確信し、海を渡り、はじめてヨーロッパに足を踏み入れたのでした。 主が道を妨げ、主が道を開かれました。まさに宣教は主が主導権をとってなされる働きだと言えます。私自身もそのようにして上越に導かれました。献身した時、私の心にあったのは「教会のないところに教会を」という開拓伝道の思いでした。そして教会の少ない新潟県を祈りました。中でも県庁所在地の新潟市を考えていましたが、どういう訳か、なかなか道が開かれません。新潟市に視察に行く予定が立たなかったり、先生方や兄弟姉妹との交わりでは、なぜか「新潟ではなく上越がよいのでは」という話になったりするのでした。それでも決めかねていたのですが、一つの資料が私に確信を与えました。開拓地を決める期限が迫っていた年の国内宣教カンファランス(当時は年始に行われていました)から帰ってきた時、分厚い茶封筒が届いていたのです。それは、私が新潟県で働くことを聞いた、とある女性宣教師から送られた資料でした。彼女は以前、新潟の各地で働きをしていたのです。その資料を見て、私は主の御心が上越だと確信しました。というのも、その資料は、新潟の3つの地域(上越、中越、下越)の中で、上越が最も教会が少ないことを示していたのです。こうして私は上越に導かれました。私の思いは新潟市でしたが、主はそれを妨げ、私が確信をもって上越に行くようにしてくださいました。主が宣教の主導権を取ってくださいました。 主は宣教の現場においても主導権を取ってくださいます。海を渡ってマケドニアに入ったパウロはピリピで宣教の働きを進めます。そしてある安息日に、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろし、集まっていた女性たちに語りかけました。その中にいた紫布の商人リディアが、ピリピで最初に救われた人となりました。その時「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた」のです(16:14)。こうしてリディアは福音を受け入れ、家族も信じ、皆がバプテスマを受けたのでした。 聖霊によって導かれた場所には、「助けてください」と願い待っている人たちがいます。その人たちに福音を語る時、主が働いて彼らの心を開いてくださり、理解させてくださり、救いへと導かれるのです。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」(第一コリント12:3)。宣教の働きは主が先導し、道を開いてくださいます。そのことに確信をもって、たゆまず福音を語り伝えていきましょう。「聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。」(ローマ10:14)。 もちろん、何を宣べ伝えるのかが大切です。「私は、彼らが神に対して熱心であることを証しますが、その熱心は知識に基づくものではありません。」(ローマ10:2)。間違った、あるいは不確かな聖書理解に基づく熱心さがあります。健全な理解を伴った熱心さこそ大切です。神学校が確かな理解と熱い心をもって主に仕えていく献身者を育んでいけるように、祈りに覚えていただければ幸いです。

キリストが形造られるまで

校長の机から キリストが形造られるまで 校長 加治佐かじさ 清也せいや 「私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」ガラテヤ人への手紙4章19節 校長の任に就いてから4か月あまりが経ちました。入学式、卒業式など多くの行事や様々な対応すべき事柄がありましたが、主の守りと導きのうちに歩ませていただいたことを主に感謝します。また諸教会の皆様のお祈りにも心から感謝いたします。そのような日々の中で、神学校の働きについてあらためて教えられたことがあります。それが冒頭の箇所です。ここでパウロは、ガラテヤの信徒たちに対して深い霊的な愛と痛みをもって語っています。ここに私は、 神学校の働きに通じるものを見る思いがします。 第一にパウロは「私の子どもたち」と呼びかけています。ガラテヤのクリスチャンたちには問題がありました。恵みの福音を急に離れて、偽りの教えに流されていました。パウロは彼らを厳しく戒め、「ああ、愚かなガラテヤ人」とさえ言いました。しかしその厳しさには愛情がありました。それが「私の子どもたち」という言葉にあらわれています。パウロは指導者と信徒という関係を超えて、親のような気持ちでガラテヤの人達を見守り、関わっていました。神学校においても、教役者と学生という基本的な関係がありつつも、我が子を愛情と厳しさをもって育てるように、関わっていくことの大切さを覚えます。 第二に、パウロは「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで」と述べています。パウロの目的はガラテヤ人の深い霊的な成長でした。それは単に知識を与えることにとどまらず、人格的な交わりにおいて、人がキリストに似た者に造り変えられていくことを意味しています。キリストのような愛の人、献身的な人、喜びの人、柔和な人、善を愛し悪を憎む人・・・そのような人に信徒がなることこそ、パウロの目的であり、そのために一人一人に深い関心を寄せていました。神学校の働きも、学生たちが霊的に成熟し、彼らのうちにキリストが形作られることを目指したいと思います。教会の信徒についてもそうですが、献身者であればなおさらです。神学校の目的は、学生を何か自分の型にはめたり、学生に自分が考える理想を押し付けたりすることではなく、彼らがよりキリストに似た、成熟したクリスチャン指導者となることです。 第三に、そのために指導者は「産みの苦しみ」をするということです。パウロは霊的な親としてガラテヤの人達のために苦しみました。女性が子を産むときには、尋常でない激しい苦痛が伴うといいます。そのような産みの苦しみをもって、パウロはガラテヤの人達に関わりました。彼らがもう一度、恵みの福音に立ち返るように、身を削って祈り、悩み、戦っていたのでした。神学校も、主から預かった大切な学生一人一人のために、親心をもって悩み苦しむものでありたいと思います。親は子供の幸せをただ願います。子供から何かを得ようとせず、子供が正しく、楽しく、強く、優しく、何よりも神とともに歩むことを願います。そのためにどうするかを考え、祈り、時に悩み苦しみます。それは子供のことを、自分事として受け止めているからです。そのように神学生一人一人を祈りに覚え、育んでいければと思います。 あらためてこのみことばに、神学校の働きに対する大切な姿勢を教えられる気がいたします。教える目的は、単に知識の伝達ではなく、彼らの中に「キリストが形づくられる」ことです。そのために、神学校は親のような愛と忍耐をもって彼らの魂に関わることが大切です。しかしながらこのような働きは、とても人の力でできることではありません。 「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」(コロサイ人への手紙1章28~29節)パウロは信徒をキリストにあって成熟した人とならせるために、労苦しながら奮闘していました。しかしそれは自分の力によるのではなく、「自分のうちに力強く働くキリストの力」によるものでした。次の世代を担っていく指導者の成熟のためになす神学校の働きも、人間の力ですることはできません。「自分のうちに力強く働くキリストの力」をいただいて、労苦し奮闘することができるのです。キリストの力を内にいただいて、献身者を育てるというこの貴い働きのため、労苦し奮闘させていただければと願います。 学生一人一人のうちにキリストが形作られるために、神学校が続けて忠実に務めを果たすことができますように、そのために内に力強く働くキリストの力が豊かに与えられますように、お祈りいただければ幸いです。

校長の机から

校長の机から 健全な教えを守り伝えたい 校長 加治佐かじさ 清也せいや この4月から神学校校長の任を担うこととなりました。よろしくお願いいたします。これまでの経緯と今の思いを記したいと思います。 昨年の7月、校長推薦委員会よりお電話がありました。アンケートの結果、推薦候補の一人となったとのことでした。驚きで、声が出ませんでした。私の名前が挙がることを、全く想定していませんでした。お話を伺いながら、校長になるなど全く考えられないと思いました。 しかしながら、もう一つの思いが心から離れませんでした。神様のみこころなら拒むことはできない、という思いでした。そういう経験がこれまでもありました。献身の時には、就職が決まった直後から、ローマ書10:14のみことば「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」が日夜心に迫りました。モーセのように、いろいろな理由を挙げて神様に断りました。私は口下手です、私よりもあの兄弟のほうがお勧めです、と神様に何度も申し上げました。しかし主のみこころに抗うことはできず、最後は白旗をあげるように、みこころを受け入れました。 「自分の思いとは違うところに神様のみこころがある。」そういう経験を重ねてきましたので、今回もみこころかどうか確かめなければならないと思いました。推薦委員会から2週間、祈りの時が与えられたので、この間に私にはっきりわかるように示してください、と神様に祈りました。するとその2週間に幾人かとの交わりが与えられました。いずれも校長職を後押しするものでした。その間に起こった諸々の出来事も同様でした。それでも何度も「無理です」と神様にお断りしました。とりわけ自分には校長を担う能力はないとお伝えしました。しかしその時、神様に言われたような気がしました。「あなたは、能力がないからできないという。では能力があるから上越教会の牧師をしているのか、神学校の教師をしているのか。」と。言われてみればそうではないのです。両方とも、私にはそんな力はありません。神様の召しがあり、恵みによって支えられているからこそ、働きをさせていただいているだけなのです。そのことに気づかされました。 そうであれば、確かに私には校長職を担う能力などないけれども、神様のみこころであるなら、神様が支えてくださるし、必要な力や知恵を賜物として与えてくださる。またこの2週間、神様は確かにこれがみこころであることを示してくださった。そうであれば、これを拒むことはできない。そういう気持ちに至り、推薦委員会にお返事しました。その際「他の候補者の方も推薦を受けるのであれば、推薦委員会にお任せします」とお伝えしましが、その方はすでにご辞退されたとのことでした。このように主が状況も開かれたことを受けて、本当にみこころなのだと受け入れ、推薦を受諾しました。 昨年の今頃は、1年後にまさかこのような状況になっているとは、夢にも思っていませんでした。しかし自分で開いた道ではなく、神様が導かれた道であることは確かです。そこに私の安心はあります。このつとめを神様からいただいたものとして受け止め、神様のみこころを求めながら、責任を果たしていきたいと思います。 JBBFは聖書を本当に大切にする群れだと思います。それゆえこの群れは神様に愛されていると思います。その群れの神学校をお預かりするのは、この身には過ぎた光栄です。歴代の校長先生が育んできたよき流れを引き継ぎつつ、変えるべきは変え、健全な神学校教育を営んでいきたいと思います。神様の支えに加えて、信頼できる教師の先生方や、祈り応援してくださる仲間が与えられていることを、とても心強く感じています。皆さんとともに協力して、神学校の働きに取り組んでいきたいと思います。最後に私が神学校で大切にしていきたいことを申し上げます。それは「健全な教え」です。第2テモテ1:13ー14「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。」聖書に基づいた健全な教え、先輩方が守り通してきた健全な教理を守っていく。不健全な教えが蔓延している今の時代にあって、健全な聖書観、神観、人間観、男女観、家族観、教会観、終末観などを、教会の指導者となる献身者たちにしっかり教えることは、神学校の大切なつとめです。また健全な教理は健全な道徳倫理の土台でもあります。不健全な教理は不道徳を生みます。教理は実践と分かち難く結びついています。 ですから、様々な知識を身に着けることが大切です。パウロも「あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように」(コロサイ1:9)と祈りました。「神のみこころ」とは、神の教え全体のことです。この知識に満たされることをパウロは祈りました。神学生が、神の教え全体の知識に満たされて遣わされるように、導いていきたいと思います。確かに知識は人を高ぶらせる危険がありますが(1コリント8:1−2)、真の知識や学びは、人を敬虔に、謙遜にするものです。「神に選ばれた人々が…敬虔にふさわしい、真理の知識を得る」(テトス1:1)ことこそ、神のみこころです。 私が住む上越は、お米の産地です。秋には金色の稲穂が風に波打つ美しい光景が広がります。たわわに実った米粒の重みで稲穂はこうべを垂れます。「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」。聖書の知識をたわわに身につければつけるほど、人は敬虔に謙遜になり、神と人に仕えるようになるのだと思います。そしてその姿はとても美しいのです。そのような献身者を送り出す神学校でありたいと思います。 この群れに、主が多くの献身者を興してくださり、神学校で学び、遣わされ、この群れがますます祝されることを願います。今後ともお祈りをよろしくお願いいたします。