秋期講座を受講して

秋期講座参加者の証し 秋期講座を受講して 渡邉 博子(名古屋BBC) 今回の秋期講座で学ぶ機会が与えられたことを神様に感謝しております。 今回の講座でまず、聖書に見出す本来の宣教の語源と定義について学びました。 キリスト教会で用いられる宣教という言葉の意味は、「イエス・キリストの福音をまだ信じていない世界中の人々に、神から委託された権威をもって伝え広める活動」である。 「宣教」という言葉は元来「派遣されること/遣わされること」という意味であり神が人類のために、御子キリストを地上に遣わした「派遣」が頂点となる言葉である。 また、「世界宣教は教会のなすべき多くの活動の一つではなく教会の本質的使命である」と学びました。 私の心に響いた箇所でした。私はこれまでどのような思いで教会を捉えていたのだろうかと考えさせられました。講座内容も遣わされる宣教師としての心構えや「すべてを現地から学ぶ」ことなどが大切であること、すべては、イエス・キリストが良き模範者であると学びました。 聖書の中でパウロが「兄弟たち、私たちのイエス・キリストによって、また御霊の愛によって切にお願いします。私たちたちのために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」(ローマ15:30)と諸教会に真剣な願いをしている。 私はこの箇所は今まで深くは心に留めていませんでした。講座を通して、パウロの伝道旅行がいかに厳しく苦しいこと、その時の教会、兄弟姉妹の祈りが彼を支えたことを学びました。 また、「世界宣教の働きに私たちが『共に戦う祈りの援軍』として参加できることはなんと素晴らしい特権だろう。」とも語られました。「離れていたとしても、共に霊的な祈りをもって戦う、同じ信仰を持った力強い援軍がいてこそ、困難が生じる異国地にあっても宣教師は福音宣教を続けられる。その仲間が私たちJBBFフェローシップの諸教会なのである。」と力強く語られました。『共に戦う祈りの援軍』その働きに、私も参加させて頂こうと思いました。 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受けます。」(使徒1:8)のお言葉から、一歩踏み出すことによって聖霊が働いて下さる。信仰によって一歩を踏み出す大切さを教えていただき感謝いたしました。 最後に、講座のために準備して下さった先生方および、この学びのためにご奉仕くださった先生方はじめとして神学生の皆様方に感謝いたします。

世界宣教としての国内宣教

秋期講座の概要と証し 世界宣教としての海外宣教 井口 拓志(立川BBC牧師) 宣教の定義 「宣教とは、あらゆる国の人々のところへ行き、福音を宣べ伝えること或いは人々をイエスの弟子とすること。」 これはイエスの権威により派遣されることによって可能となる。また、宣教には伝道的要素と教育的要素がある(マタイ28:18−20、マルコ16:15、ヨハネ20:21)。 宣教の目的 宣教の最終目的は、神がご自身の国を造ることにある。それはイエスの宣教開始の宣言(マタイ4:17)や主の祈り(マタイ6:9−10)、最終的な預言である「新しい天と新しい地」(黙示録21:1)から明らかである。 神の計画全体から見る宣教 神がご自身の国を造ることは、神の計画全体から理解する必要がある。パウロは「神のご計画のすべて」と言っている。その計画のゴールは、御国を神の民が相続するときである(使徒20:27、32と黙示録21:1−2)。神の計画は、人が罪を犯して、エデンを追放されたときから始まっている。国を成り立たせるためには、王と(1テモテ1:17)国土と国民が揃わなければならない。特に、罪を犯した人はサタンの支配下(この世)に入ってしまったので、神は彼らを救済して、サタンの支配から奪還しなければならない。神に対する故意の反抗にもかかわらず、神は一方的な愛をもって人をお救いになる。ただ、神にとって人の救いはゴールではなく、救った人を神の国に入れさせ、御国そのものを相続させることにある(使徒20:32)。そのような神の計画の手段が宣教である。神の計画全体は、「聖書全体」(ルカ24:27)であり、神のご意志全体である。聖書全体から神のご意志に基づいた宣教を行うなら、神の計画に従って必ず前進する。 定義の再確認 宣教は福音を宣べ伝えること。その「宣べ伝える」とはどういうことか?聖書は、(1)「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」(マタイ24:14)という。別の箇所では、(2)「異邦人の満ちる時…」(ローマ11:25)という。終わりの時に神が救われるべき異邦人の数を揃えるという。*私たちが行う宣教は、神の救うべき異邦人が満ちるために、あらゆる国の人々に福音を宣べ伝える。救われるかどうかは、数を揃える神の責任である。そうなると、次のパウロのことばが理解できる。(3)「・・・見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられている…そのことを喜んでいる」(ピリピ1:17−18)パウロを苦しめるための不純な動機の宣教を、パウロが受け入れることができるのは、神の計画全体を承知しているからである(使徒20:27)宣教の目的は、教会を豊かに成長させるためではない。キリストを宣べ伝えるためである。初代教会の使徒たちがユダヤ指導者たちに捕えられたとき、敵方が彼らを責め立てたことばに、宣教理解のヒントがある。それが、(4)「・・・何ということだ。おまえたちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった」口語訳は「氾濫させてしまった」である。元の意味は「満たす、溢れる」宣教は広めることであり、福音を溢れさせることである。そのための教会の成長である。宣教は霊的戦いである。御国を造る神に激しく背く力が常に働いている。悪魔である。しかし、神は霊的戦いに終止符を打つ。地上における神の国の期間(千年王国)を終えた後、イエスにより死と悪魔が滅ぼされる(黙示録20:10、14)。救われた者は、この戦いとしての宣教に参与しているのである。しかし、私たちは弱い。何人かでも救いたいという熱意だけでは挫折する。そうならないためにも、宣教の目的と動機を確かにし、持続可能な戦い方をする。

世界宣教としての海外宣教

秋期講座の概要と証し ✤2025年11月3、4日に、「世界宣教としての国内・海外宣教」というテーマのもとで秋期講座を開催しました。海外宣教については佐藤一彦師に、国内宣教については井口拓志師に、講義を担当していただきました。神学生を含め24名が講義を受けました。 世界宣教としての海外宣教 佐藤 一彦(太田BBC牧師) 新約聖書の「宣教」という言葉の語源は「派遣、送ること」のギリシャ語「apostello /アポステロー」から来ており、「使徒」は英語で「Apostle/アポストロ(遣わされた者)」はアポステローの派生語である。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」この中の「遣わされた」(ヨハネ20:21)にアポステローが使われている。これは神が人類救済のために御子を地上に遣わした「派遣」が頂点となり、次にキリストに代わって派遣されたのが使徒たちであり、彼らの働きを通して福音が世界に拡大するきっかけとなった。そして、次に私たちがどこかに「遣わされる」ために神が召して下さっていることに気付くべきである。 「主の栄光を国々の間で語り告げよ。その奇しいみわざをあらゆる民の間で。」(詩編96:3)。 全世界に主の栄光が満ちるためには、私たちが神の代理人として人々の間に遣わされるために召されているという意識を持ちつつ、教会から地域社会へと更に世界へと外に広がっていく神の遠心的な世界宣教の働きであることを覚える必要がある。そして、この世界宣教の働きは地方教会が主体となって、信じる者の群れが、共に祈り合い、協力し合い、犠牲を払い合って、福音を世界の国々に拡大させることが教会に対する御計画なのである。それを実現するためには、教会が「宣教」に常に関心を持ち、教会自身が更に霊的成長することが不可欠(使徒9:31)である。そして、教会の霊的成長のバロメーターは「与える教会」であるかということにある。それは、教会の大きさ、人数の多さ、経済力、機動力とは関係ない。パウロの宣教を支えたマケドニアの諸教会は決して豊かな教会ではなかった(2コリント8:1−5)が、神の視点をもって世界の畑を見ながら、貧しさの中でも一歩踏み出した時に、神の溢れるばかりの恵を経験できた。 「あなたがたは、「まだ四ヶ月あって、それから刈り入れだ」と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」 (ヨハネ4:35)。 神は、諸教会に世界宣教の働きを絶えずチャレンジしておられる。現状に満足することなく、更なる遣わす宣教への重荷を持ち関わっていく必要がある。実際、主は様々な形を通して私たちを鼓舞させようとしている。例えば、現在海外から宣教師たちが今なお日本の魂のために遣わされている現状を知っておられるだろうか。2019年以降日本に来られた宣教師は12組と一人。この現状に、私たちは使徒20:35を重く受け止めるべきである。「受けるよりも与える方が幸いである。」私たちには自分の同胞を一人でも多くキリストのもとに導くために国内伝道や牧会という求心的な教会と、「すべての民族、全世界」に向かう遠心的な重荷を持つ二つのタイプの教会があるのではない。一つの教会が車の両輪、あるいは二つの翼のように、国内海外に重荷を持ち、祈り、活動していく教会として召されていることを自覚する時に主はその教会を豊かに用いられる。 最後に、現在海外の宣教地で働いておられる宣教師たちには祈りの援軍が不可欠である。パウロは「私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」(ローマ15:30)と祈りの要請を諸教会に送らなければならなかった状況は今も同じである。「ともに力を尽くして」とは本来「一緒に戦う」という意味である。宣教師は宣教地において仕える僕「サーバント・リーダー」として人々の間に生きている。「サーバント(仕える人)」と「リーダー(導く人)」という、一見相容れないように思える姿は、権力ではなく奉仕、注目されるのでなく謙虚な姿勢を示しながら人々を導くイエス・キリストがその良き模範者である(マタイ20:28)。 多くの困難と危険が伴う異国の地での働きに、私たちの代表として遣わされた宣教師のために「力を尽くして」支援しよう。 ありがとうございました。

主に祈り、共に過ごす

伝道実習の報告と証し 主に祈り、共に過ごす 奥村 夏葉(ワーカーズ・1年生) 今回の伝道実習の後半には、安藤先生ご夫妻をはじめ、船橋教会の皆様、柏教会の皆様、流山教会の青島先生ご夫妻、佐倉教会の齋藤先生ご夫妻と姉妹方との幸いなお交わりと、学びの時が与えられました。恵みを心から主に感謝いたします。 実習の後半では、諸教会を訪問させていただく機会が与えられ、先生方、兄姉との学びや交わりの機会を通して、主の働きをそれぞれの地でどのように担われているのかを直接お聞きし、地域を見ることが許されました。 地域との関わりにおいて、地域の特徴を捉えることや地域に根差すこと、顔と名前が一致する関係作りを大切にしているということや、自治会の清掃作業に参加されている等のお話も伺いました。あらゆる人々へ福音を伝えるためには、あらゆる人々の文化や環境を知り、自分自身もそこに住み、同じものを共有していくことが重要であると学びました。 またその中で、地域や教会に集われているお一人お一人の必要を知り、祈りと愛と具体的な行いを持って、主が始められた働きが益々前進して行くように仕えていくことが大切であるということも教えていただきました。 「すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。」 (1コリント9:22) さらに、伝道実習全体を通して「まず主に祈る」ことを教えていただきました。実習中も、状況に心を揺さぶられやすい自分の弱さを痛感しました。 その中でも、船橋教会の祈祷会に参加させていただいた際、兄姉が神学生の名前を挙げて、主に期待して祈ってくださっている姿や、諸教会の先生方のレクチャーにおいても、まず主に信頼して祈るということを教えていただき、果たして自分はどれほど主に信頼して祈りをお捧げし、望みと期待を持って歩めているだろうかと、問われました。 また、神様は実習中のデボーションにおいても、祈りは大きな業であるということ、祈りによって「私」ではなく「主が」成してくださるという恵みに気づかせてくださいました。 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」(ヨハネ14:1、14) 実習での様々な学びと恵みを主に感謝いたします。主のお働きのために、日々祈り、日々この身をお捧げしていく者でありたいです。

十字架を見上げて、共に

伝道実習の報告と証し ✤2025年10月13から17日まで伝道実習が行われました。実習の前半は、第51回野の花フェローシップキャンプに参加し、後半は、船橋聖書バプテスト教会で奉仕をさせていただきました。また、京葉地区の諸教会にうかがうこともできました。 十字架を見上げて、共に 渡邊 剛志 (4年課程・4年) 今回は野の花キャンプと船橋BBCにおいて実習の機会が与えられ、主からの多くの学び、取り扱いをいただきました。障がいをもたれた方と共にみことばを伺い、分かち合う時間は大変幸いなときでした。教会でお会いするだけでは見えない、寝食を共にするからこそ分かること、見えてくるものがありました。『魂に仕えるとは』、『共に教会形成するとは』など、伝道者として覚えるべき多くのことがこのキャンプに凝縮されていたように思います。様々なことを教えられましたが、ここでは2つの恵みを証させていただきます。 1・想像力を働かせて目の前の魂に仕える 3日間、脳性麻痺の方と共に過ごす機会が与えられました。その交わりを通して『目の前の魂に想像力を働かせて仕える』ということを主から教えていただきました。脳性麻痺の方々はあらゆる面において介助が必要であり、相手の方が今何に困っているのか、を常に覚えながら関わる必要があります。言葉にならない心の葛藤や必要をこちらが想像力を働かせて捉える。これは障がいの有無に関わらず、あらゆる方との関わりにおいても重要なことであると思います。主の眼差しで他者を見つめ、想像力を働かせて目の前の魂にお仕えする働き人とさせていただきたいです。 2・「共に」教会を建て上げる キャンプ中に開かれた1コリント12:22の御言葉に心刺されました。「弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。」これまでの歩みが走馬灯のようによみがえり、心探られ、悔い改めました。私は目の前の魂にどのような想いで関わり、仕えてきたか。弱く見える部分を尊重し、大切にし、教会を建て上げようとしてきたか、と。集会でのメッセージや交わりを通して、改めて「教会」はこの世の組織と全く異なる、素晴らしい神の共同体であることを覚えました。年齢、立場、状況が異なる方々と全く一つとなって教会を建て上げていくことは人間的なわざ、力では到底できません。キャンプテーマにあったように、ひたすらに十字架の主を見上げ、そこに示される主の愛と赦し、慰め、回復を共に分かち合って進んでいく。主のみを見上げ、共に生き、共に教会を建て上げる者とさせていただきたい、と思わされました。

大学時代の授業よりもよっぽど・・・

オープンキャンパスの証し ✤2025年9月30日から10月10日まで、オープンキャンパスを開催しました。7名が参加し、授業を聴講されました。 大学時代の授業よりもよっぽど・・・ 工藤 望(浅間BBC) 主の御名を賛美いたします。このたび、私にとって3度目のオープンキャンパスへの参加の機会を与えられたこと、また、今回は浅間BBCから初めて2人の姉妹が共に参加できた恵みに感謝いたします。 私は軽井沢に移住してきたころにはまだ信仰を持っていませんでしたが、散歩の途中で神学校を見つけ、近所にこのようなところがあるのだなということは知っていました。その後、別の教会で信仰を持ち、浅間BBCに転籍するよりも前の2023年11月に初めてオープンキャンパスへ参加する機会を与えていただきました。その時は、「あの施設の中がどうなっているのか見てみたい」というような不純な動機であったことを告白いたします。 しかし、いざ参加してみると、大学時代の授業よりもよっぽど興味深く濃い内容で、これまで通ったどの学校よりも近くにこんな素晴らしいお話を聞けるところがあるだなんて、神様は出無精でどこにも出かけない私にこのようなチャンスを与えるためにこの地に導いてくださっていたのだと知り、また、転籍前にも関わらず受け入れてくださった神学校の懐の深さにも感謝いたしました。 その後、無事浅間BBCへの転籍も済み、今年の5月、そして10月のオープンキャンパスへも続けて参加させていただきましたが、5月は自分が手術後1か月であったことと愛猫の具合が悪く介護中であったこと、10月は引き続き愛猫の介護をしていたこともあり、遠くからいらっしゃる兄弟姉妹がしっかりとプランを立てていらっしゃる中、「行けたら行く」というようなかたちでの申し込みとなってしまいました。このような状況なので今回は遠慮したほうがよいだろうと思っておりましたが、それでも大丈夫だと快く受け入れてくださったことに感謝いたします。 今回は「教会史」の授業に参加させていただきました。学校の歴史の授業で習う「宗教改革」という言葉と年号の意味を背景から教えていただき、歴史は嫌いな教科ナンバーワンである私にもよくわかりました。「590年と1517年だけ覚えておけばいいですよ」と言ってくださり、しばらくは覚えていたはずなのですが、今この文章を書こうとしたらその数字すら覚えられていませんでした。しかし、改めていただいた資料を見て、また新鮮な目で「そうだったのか!すごいな!」と感動できるというのは、「忘れることも幸いなり」と教えられているようです。 このように、テストがあったら決して及第点を取れそうにない者ですが、地の利を活かしてオープンキャンパスへ参加させていただけることで、各地から集まって来られる神学校の先生方、神学生の皆様、共に参加される兄弟姉妹との交わりの機会が与えられることは大きな喜びです。皆様と知り合ってから、神学校だよりが届くのがますます楽しみになりました。 「さあ、おいでください。もう用意ができましたから」(ルカ14:17) 神様の招きに感謝するとともに、神学校の素晴らしい講義をもっと多くの兄弟姉妹と分かち合い、共に交わりを持てる日を楽しみにしています。

福音宣教と神学校

校長の机から 福音宣教と神学校 校長 加治佐かじさ 清也せいや 「彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。」(使徒16章10節) 福音宣教と神学校は、切り離すことのできない関係にあります。その宣教について、秋期講座において佐藤先生・井口先生から、多くの大切なことが語られました。講座を通してあらためて教えられたことの一つは、宣教とは主の働きだということです。主が人を遣わし、主が道を開き、御国の完成という主の大きな目的に向かって宣教の働きがなされます。使徒の働きは、そのような主の宣教のわざに満ちています。その中から、使徒16章を読んでいきましょう。 使徒16章はパウロの第二次伝道旅行について記しています。パウロはシラスとともにアンティオキア教会を出発し、「キリキアの狭門」と呼ばれた、狭く険しく危険な山岳路を超えて小アジアに入ります。その動機は愛でした。第一次伝道旅行で生まれた諸教会を励ますためでした(15:36)。多くの迫害があり、パウロも死にかけたことがあった地ですが、それにも関わらず、再び小アジアに向かったのでした。 キリキアを超えたパウロは、リステラで、若く忠実なテモテを一行に加えます。諸教会もパウロの再訪を受けて励まされ、人数も増えて行きました。 パウロはさらに小アジアで働くつもりでしたが、そこに主の御手が介入します。聖霊によって行く手を阻まれたのです。そこで北上し別の場所に進もうとしましたが、それも聖霊によって許されませんでした。そのため西に進路変更しエーゲ海に面したトロアスまで来たところ、「私たちを助けてください」と懇願するマケドニア人の幻を見たのです。これをもって、冒頭のみことばにあるように、パウロはマケドニアに行くことが神のみこころだと確信し、海を渡り、はじめてヨーロッパに足を踏み入れたのでした。 主が道を妨げ、主が道を開かれました。まさに宣教は主が主導権をとってなされる働きだと言えます。私自身もそのようにして上越に導かれました。献身した時、私の心にあったのは「教会のないところに教会を」という開拓伝道の思いでした。そして教会の少ない新潟県を祈りました。中でも県庁所在地の新潟市を考えていましたが、どういう訳か、なかなか道が開かれません。新潟市に視察に行く予定が立たなかったり、先生方や兄弟姉妹との交わりでは、なぜか「新潟ではなく上越がよいのでは」という話になったりするのでした。それでも決めかねていたのですが、一つの資料が私に確信を与えました。開拓地を決める期限が迫っていた年の国内宣教カンファランス(当時は年始に行われていました)から帰ってきた時、分厚い茶封筒が届いていたのです。それは、私が新潟県で働くことを聞いた、とある女性宣教師から送られた資料でした。彼女は以前、新潟の各地で働きをしていたのです。その資料を見て、私は主の御心が上越だと確信しました。というのも、その資料は、新潟の3つの地域(上越、中越、下越)の中で、上越が最も教会が少ないことを示していたのです。こうして私は上越に導かれました。私の思いは新潟市でしたが、主はそれを妨げ、私が確信をもって上越に行くようにしてくださいました。主が宣教の主導権を取ってくださいました。 主は宣教の現場においても主導権を取ってくださいます。海を渡ってマケドニアに入ったパウロはピリピで宣教の働きを進めます。そしてある安息日に、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろし、集まっていた女性たちに語りかけました。その中にいた紫布の商人リディアが、ピリピで最初に救われた人となりました。その時「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた」のです(16:14)。こうしてリディアは福音を受け入れ、家族も信じ、皆がバプテスマを受けたのでした。 聖霊によって導かれた場所には、「助けてください」と願い待っている人たちがいます。その人たちに福音を語る時、主が働いて彼らの心を開いてくださり、理解させてくださり、救いへと導かれるのです。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」(第一コリント12:3)。宣教の働きは主が先導し、道を開いてくださいます。そのことに確信をもって、たゆまず福音を語り伝えていきましょう。「聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。」(ローマ10:14)。 もちろん、何を宣べ伝えるのかが大切です。「私は、彼らが神に対して熱心であることを証しますが、その熱心は知識に基づくものではありません。」(ローマ10:2)。間違った、あるいは不確かな聖書理解に基づく熱心さがあります。健全な理解を伴った熱心さこそ大切です。神学校が確かな理解と熱い心をもって主に仕えていく献身者を育んでいけるように、祈りに覚えていただければ幸いです。

行事予定

行事予定 9月2日・授業開始 9月30日〜10月3日・ オープンキャンパス(第1週目) 10月7日〜10日・オープンキャンパス(第2週目) 10月13日〜17日・伝道実習 11月4日〜5日・秋季講座 11月18日・第1入学考査 12月16日〜1月9日・冬季休暇

編集後記

編集後記 編集者 上田 平安 『神学校だより』の読者のひとりから、編集者のひとりになりました。「編集後記」というものを生まれてはじめて書くにあたり、その目的と意味を調べました。「編集後記」には、本号と次号、刊行物と読者をつなぐという目的があるようです。神学校の使命が次世代へと引き継がれている中で、本号も、読者と神学校をつなぐ一つの媒体となっていきますように!