20年目の再入学

新任教師自己紹介 20年目の再入学 浜田 献けん 清水BBC牧師 担当科目・組織神学1、キリスト教概説 自らの乏しさを痛感しつつも、「大牧者なる主が一切の必要を満たしてくださる」という恵みに身を委ねるように促されて、神学校の門を叩き、今年でちょうど20年になりました。この節目の年に、もう一度神学校に入学する思いで、教師としての働きを担わせていただけることを主に感謝しています。 神学校を卒業してから、伝道と牧会の現場で過ごしてきた日々は、かつて教えていただいた通り、常に主が傍におられ、御栄えを現してくださる幸いを感謝する日々でした。一方、御前に静まって神学に取り組むことができていないという課題を常に痛感させられてきました。この度、神学校において担当する科目をいただき、いま一度、御前に静まって学ぶ機会を主が用意してくださったのではないか、という思いの中にいます。 『天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います』(マタイ) 備えられた機会に臨む中で、すべてにまさって価値のある「福音の豊かさ」や「信仰に生きる喜び」に思いを向けていくことができればと願っています。学生時代にも印象深く、思い出深い授業であった「キリスト教概説」と「組織神学1」を担当させていただけることも感謝なことです。 「キリスト教概説」は、キリスト教信仰の精髄である教理や周辺課題に目を向けつつ、キリスト者としての世界観を構築し、神の視点(聖書の視点)で物事を捉え、生き、証しすることを考えるクラスです。「組織神学1」では、「啓示論」や「神論」に取り組みます。神とその言葉を学ぶことが、キリスト者としての生き方や祈りを形づくり、宣教に広がりと深みを与え、主の教会を建てあげていくことに繋がっていく、その期待と求めをもって、主が神学校に送ってくださる兄姉と学びに臨むことができたらと願っています。 現在、私は家庭においても「信仰の継承」という使命と向き合わされています。 限られた時間の中で、限りなき主の愛と真実を分かち合うということは、幸いなチャレンジであり、素晴らしい恵みの経験であると認識しています。私自身も学びつつの取り組みですが、主が上よりの力で支えてくださり、学生の皆様とご一緒に、主とその計画に目を向けていくことができるように、また主の視点で目の前の課題を考えることができるように、お祈りに覚えていただけますと幸甚に存じます。 「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」コロサイ人への手紙2章3節

何人かでも救うために

新入生の証 何人かでも救うために 入学生 奥村 夏葉なつは ワーカーズ2年課程・清水BBC このように、神様のお導きと皆様の祈りに支えられ、神学校への入学が許されたことを心から神様に感謝いたします。今回は、私の救いと献身について証させていただきます。 私は、クリスチャンホームに生まれ、幼い頃から聖書の話に親しみ、日曜日に教会へ行くことは当たり前の生活を送っていました。イエス様の十字架や復活についても信じていましたが、自分の罪については意識が低く、自分の罪についてはっきりと示されたのは、高校1年生の春でした。ルカ15:4−7より、羊の姿から罪人の姿を示され、救いへと導いてくださる神様が必要であるということと、神様は罪の世界で彷徨う私を探して救うために、イエス様をこの世界へ送ってくださり、イエス様を通して救いを用意してくださったことを、これまで以上に自分のこととして理解しました。また、ヨハネ15:5の御言葉より、イエス様にとどまり続けることを教えられた私は、自分の弱さや罪ある姿をよりはっきりと自覚し、神様はそんな私の全生涯を導き、愛してくださるという恵みを知る中で、信仰の確信へと導かれ、バプテスマを受ける恵みに与りました。 それからも、日曜学校や礼拝で聖書のメッセージをいただき、私が最初に献身の思いへと導かれたのは大学3年生の年でした。特に時間において自分の思いを第一に過ごしていた私に、神様はマタイ6:33の御言葉を通して罪を示し、悔い改める機会をくださり、今まで自分のために使っていた時間を、日々の生活の中での祈りやデボーションに使い、参加できる教会の行事には全て参加し、神様との時間を第一とする生き方へ導いてくださいました。 また、神様は、私自身に与えられている賜物が分からず、すぐに他人と比較して、自分には差し出せるものが何もないと思ってしまっていた私の気持ちを「秀でるものは何も持っていないけれど、せめて私の全てを用いてください」という心へ変えてくださり、献身の思いを与えてくださいました。 献身の思いを持ちながら、看護学生時代には働き方を考える中でマルコ2:17より、訪問看護師としての道が示されたり、社会人になってからはイザヤ55:5、12ー13より、今与えられている環境の中で、神様の力をいただいて、積極的に神様を喜んで証するように導かれていきました。神様からの導きを日々祈る中で、2024年6月の祈祷会で開かれた1コリント9:22のパウロの姿を通して、主のためなら、何人かでも救うためなら何にでもなりたいという思いが与えられ、デボーションの中で与えられた2テモテ4:2、5より、福音宣教のために私の生涯をお捧げする決心へと導かれました。 これからの神学校での学びと訓練を通して、主の栄光を現す通り良き管となれますよう、お祈りに覚えていただけますと幸いです。

愛する主に心から感謝して

修了生の証 愛する主に心から感謝して 修了生 金原 史佳ふみか ワーカーズ2年課程・清水BBC 主のすばらしい御名を心から賛美いたします。入学式の翌朝、カーテンを開けてびっくりしました。燃えてしまうのではないかと思うくらい真っ赤な朝焼けが辺りを照らしていて、この世界を造られた神様を恐れました。翌日、齋藤先生から「『みことばが与えられた』と言うのはどう思いますか?すでに聖書六十六巻は与えられています。」と教えていただき、はっとしました。朝焼けもそうですが、私はこれまでどれだけ神様のくださる恵みを見逃し、みことばを聞き逃してきたのだろうと思いました。この二年間は、神様のくださる驚くばかりの恵みに気付かされ、朽ちることのないみことばに目が開かれ、心探られ、励まされ、力をいただき、生きて働かれる神様を知る本当に幸いな期間でした。言い尽くせない主への感謝を覚えつつ、ここでは特に三つのことを主に感謝し、お証とさせていただきます。 「主がお入用なのです。」(ルカ19:31) まず、変わることのない主の召しに感謝いたします。大学生の時、小さな子ろばを用いると言ってくださる主に、看護師として、伝道者として、お仕えしていきたいと導かれました。それから神様は、看護師として四年間の経験をくださり、神学校で二年間の学びと訓練を与えてくださいました。この二年間、自分の弱さをこれでもかと示される中で、このような小さな私を主が用いてくださるということが大きな励ましでした。そして、四月から教会スタッフと地域の看護師としての働きが始まりました。今日も主が私を用いてくださるということが力となっています。ここまでの主のお導きを感謝いたします。 「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩篇23:1) 次に、私は弱い羊ですが、主が私の羊飼いであることを感謝いたします。入学前、修了後は神の武具をたくさん身につけて強く雄々しく働きに出るのを想像していました。そのような側面もありましたが、どちらかと言えば、剣を奪われ、鎧をはぎ取られ、弱さが突きつけられました。私は神様の前にどうしようもない罪人なのだと何度も示され、その度に、このような私のためにいのちを投げ出してくださったイエス様の十字架の愛に深く感謝し、悔い改めへと導かれました。自分の弱さを知るとき、主だけが輝いていました。今日も大牧者であられる主が私とともにいてくださることを感謝いたします。 「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ2:20) そして、私のうちにキリストがおられることを感謝いたします。ギリシャ語の課題に取り組んでいる時、「キリストが私『のうちに』生きておられる」が、前置詞『εν』であると気が付きました。キリストが私のど真ん中におられる、キリストと一つにされている、だからもはや私が生きているのではない、私の人生を歩まなくていいのだと分かり、胸が熱くなりました。キリストとともに十字架につけられ、自分にはキリストのいのち以外は何も残っていないという栄光の特権にあずかっていることを感謝いたします。 最後に、学ぶ楽しさと献身者としての生き方を教えてくださった神学校の先生方に、多くの祈りと励ましをくださった諸教会の皆様に、十二弟子のように学びと訓練と寝食を共にさせていただいた神学生の皆様に、生活を支えてくれたノンクリスチャンの家族に、祈りの内に送り出してくださった清水聖書バプテスト教会の皆様に、主にあって感謝いたします。皆様に主の恵みがともにありますように。愛する主に心から感謝しつつ、すべての栄光をお返しいたします。

校長退任の証と感謝

校長退任の証と感謝 不変で信頼できる神のことば 前校長 斎藤 秀文 「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11章36節) 主は私にもう一つの働きの舞台として、神学校へ18年前に遣わしました。その働きを終えるにあたり、今、私のうちにあるのは主への感謝です。この感謝は、単に神学校の働きを終え次の人へとバトンタッチできた喜びではありません。それは、神のことばだけが、不変で絶対に信頼できるとの信仰さえもが神によって与えられているという幸いを再確認した時だったからです。その幸いな奉仕の背後には、私の知らないところでの多くの先生方、諸教会の祈りと支援が献げられている、これを知らされたからです。これは私にとって大きな喜びでした。 しかしこの18年は、決してうれしい事ばかりではありませんでした。コロナ対策、学生の心身の健康問題、財政問題等々、悲しい事、悔しい事、様々ありました。そして5年間の校長職という奉仕でしたが、プレッシャーのゆえに悪夢にうなされる夜が度々ありました。しかし、今、それらすべてが、神が私に見せて下さったユニークな人生の景色であり、すべてが恵みであったのです。ただ神を賛美するのみです。 更に神学校での奉仕は、驚くほど魅力的な働きでした。それは、福音に生きる主の民を通して、全てが神のなされる宣教の業だと知る奉仕だったからです。「主は私に色々な景色を見せて下さった」といえます。その景色は、「人とはその置かれた場所によって見える景色が違う」のです。そしてその全てが主の御配剤の中にあったということです。 私は、これらの景色を楽しみ、また自分に与えられた境遇をも主が与えて下さった人生である、という喜びと感謝を味わったのです。このように言えるのは、「真理のみことばへの不動の信頼」と「聖書信仰に立つ神学的枠組みをもつ」ことの大切さを学生たち、先生方とこの神学校で再確認できたからです。ここで私は、「主がみ言葉で証しされているところに聞き、それをどこまでも、あらゆる場面で基盤(であり前提)として生きる以外に確かなものはない」このことを神学校で私は、改めて教えられたのです。信仰は、人の決意や熱心さなどによるのでも、個人の人間性によるのではなく、神からの賜物だということの再認識でした。 私にとっては、これらの確認をさせて頂く神学校での奉仕でした。私が一番大きな憐れみを頂いていたのかもしれません。それ故に、この働きを与えて下さった主に感謝し、それを支えて下さった多くの主にある神の民(同労者)に感謝します。 最後に、主にあって私を送り出してくれた金沢聖書バプテスト教会と妻に感謝して最後の便りとさせて頂きます。この度、日本バプテスト聖書神学校を卒業することが出来ました幸いを、心より主に感謝申し上げます。また、この学びの場をお与え下さった神学校の諸先生方、及び、祈り支え続けて下さった諸教会の兄弟姉妹方に、心より感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。

校長の机から

校長の机から 健全な教えを守り伝えたい 校長 加治佐かじさ 清也せいや この4月から神学校校長の任を担うこととなりました。よろしくお願いいたします。これまでの経緯と今の思いを記したいと思います。 昨年の7月、校長推薦委員会よりお電話がありました。アンケートの結果、推薦候補の一人となったとのことでした。驚きで、声が出ませんでした。私の名前が挙がることを、全く想定していませんでした。お話を伺いながら、校長になるなど全く考えられないと思いました。 しかしながら、もう一つの思いが心から離れませんでした。神様のみこころなら拒むことはできない、という思いでした。そういう経験がこれまでもありました。献身の時には、就職が決まった直後から、ローマ書10:14のみことば「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」が日夜心に迫りました。モーセのように、いろいろな理由を挙げて神様に断りました。私は口下手です、私よりもあの兄弟のほうがお勧めです、と神様に何度も申し上げました。しかし主のみこころに抗うことはできず、最後は白旗をあげるように、みこころを受け入れました。 「自分の思いとは違うところに神様のみこころがある。」そういう経験を重ねてきましたので、今回もみこころかどうか確かめなければならないと思いました。推薦委員会から2週間、祈りの時が与えられたので、この間に私にはっきりわかるように示してください、と神様に祈りました。するとその2週間に幾人かとの交わりが与えられました。いずれも校長職を後押しするものでした。その間に起こった諸々の出来事も同様でした。それでも何度も「無理です」と神様にお断りしました。とりわけ自分には校長を担う能力はないとお伝えしました。しかしその時、神様に言われたような気がしました。「あなたは、能力がないからできないという。では能力があるから上越教会の牧師をしているのか、神学校の教師をしているのか。」と。言われてみればそうではないのです。両方とも、私にはそんな力はありません。神様の召しがあり、恵みによって支えられているからこそ、働きをさせていただいているだけなのです。そのことに気づかされました。 そうであれば、確かに私には校長職を担う能力などないけれども、神様のみこころであるなら、神様が支えてくださるし、必要な力や知恵を賜物として与えてくださる。またこの2週間、神様は確かにこれがみこころであることを示してくださった。そうであれば、これを拒むことはできない。そういう気持ちに至り、推薦委員会にお返事しました。その際「他の候補者の方も推薦を受けるのであれば、推薦委員会にお任せします」とお伝えしましが、その方はすでにご辞退されたとのことでした。このように主が状況も開かれたことを受けて、本当にみこころなのだと受け入れ、推薦を受諾しました。 昨年の今頃は、1年後にまさかこのような状況になっているとは、夢にも思っていませんでした。しかし自分で開いた道ではなく、神様が導かれた道であることは確かです。そこに私の安心はあります。このつとめを神様からいただいたものとして受け止め、神様のみこころを求めながら、責任を果たしていきたいと思います。 JBBFは聖書を本当に大切にする群れだと思います。それゆえこの群れは神様に愛されていると思います。その群れの神学校をお預かりするのは、この身には過ぎた光栄です。歴代の校長先生が育んできたよき流れを引き継ぎつつ、変えるべきは変え、健全な神学校教育を営んでいきたいと思います。神様の支えに加えて、信頼できる教師の先生方や、祈り応援してくださる仲間が与えられていることを、とても心強く感じています。皆さんとともに協力して、神学校の働きに取り組んでいきたいと思います。最後に私が神学校で大切にしていきたいことを申し上げます。それは「健全な教え」です。第2テモテ1:13ー14「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。」聖書に基づいた健全な教え、先輩方が守り通してきた健全な教理を守っていく。不健全な教えが蔓延している今の時代にあって、健全な聖書観、神観、人間観、男女観、家族観、教会観、終末観などを、教会の指導者となる献身者たちにしっかり教えることは、神学校の大切なつとめです。また健全な教理は健全な道徳倫理の土台でもあります。不健全な教理は不道徳を生みます。教理は実践と分かち難く結びついています。 ですから、様々な知識を身に着けることが大切です。パウロも「あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように」(コロサイ1:9)と祈りました。「神のみこころ」とは、神の教え全体のことです。この知識に満たされることをパウロは祈りました。神学生が、神の教え全体の知識に満たされて遣わされるように、導いていきたいと思います。確かに知識は人を高ぶらせる危険がありますが(1コリント8:1−2)、真の知識や学びは、人を敬虔に、謙遜にするものです。「神に選ばれた人々が…敬虔にふさわしい、真理の知識を得る」(テトス1:1)ことこそ、神のみこころです。 私が住む上越は、お米の産地です。秋には金色の稲穂が風に波打つ美しい光景が広がります。たわわに実った米粒の重みで稲穂はこうべを垂れます。「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」。聖書の知識をたわわに身につければつけるほど、人は敬虔に謙遜になり、神と人に仕えるようになるのだと思います。そしてその姿はとても美しいのです。そのような献身者を送り出す神学校でありたいと思います。 この群れに、主が多くの献身者を興してくださり、神学校で学び、遣わされ、この群れがますます祝されることを願います。今後ともお祈りをよろしくお願いいたします。